お話と演奏がセットになったクラシック音楽の講座です。
用事があったため後半の演奏は聴けず、前半の岡田暁生さんのレクチャーだけ聴いてきました。
講師は岡田暁生さん。
レクチャーの覚書です。
ウィーン古典派と言えば、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン。
今回、ベートーヴェンが外れているのは、ハイドン、モーツァルトに対してベートーヴェンは少しメンタリティが違っているからだということだそうです。
ハイドン(1732~1809年)、モーツァルト(1756~1791年)はフランス革命(1789~1795年)の前後の作曲家。
ハイドンは長生きをしましたので、フランス革命以後も作曲活動をしていましたが、やはりメンタル的にはフランス革命以前の作曲家です。
モーツァルトはまさにフランス革命までの時代を生きた作曲家です。
この2人の時代は、貴族社会的な端正さが美徳とされ、また感情をストレートに出さないのが礼儀とされていて、それは音楽でもそうでした。
さて、ピアノが今と同じような形になり始めるのもこの頃です。
「ピアノ・ソナタ」はピアノの可能性を追求するため、また作曲技法の試作としても作られました。
岡田さん曰く、モーツァルトのピアノ・ソナタを現代のピアノで弾くとスケールが小さい印象があるが、モーツァルトの時代のピアノで弾くと凄くダイナミックに聞こえるそうです。
モーツァルトのピアノ・ソナタは、チェンバロでも弾くことができます。
初期のピアノ・ソナタの中には、チェンバロ的な特徴が出ています。
これを現代のピアノで弾く時に、ピアニストによっては、チェンバロ的な表現とピアノ的な表現の両方を出すことができるそうです。
ピアノの変化は、産業革命と大きく関ります。
ピアノは木で作られていて、職人の仕事でした。
木はたわみ、温度や湿度の影響を受けやすく、調律が狂いやすいのがデメリットでした。
また、音量を上げるために弦の張力を上げる必要があるのですが、強い張力でチューニングピンを木に固定すると壊れてしまうため、頑丈な素材として鉄が採用されるようになってきました。
この鉄を使ったピアノは、産業革命が起こったイギリスで始まります。
産業革命によって工場でピアノを生産することが可能になったことで、職人の手作業では難しい鉄のフレームを使ったピアノが主流になってきます。
ちなみに、ベートーヴェンの「ハンマークラヴィーア」は、イギリス製の鉄フレームのピアノをもらったことで作曲されました。
モーツァルトは、鉄を使ったピアノを知らないと言われています。
モーツァルトが活動していたウィーンのピアノが求めたのは、柔らかな響きでした。
ベーゼンドルファーに代表されるように、ウィーンのピアノは最後までピアノに鉄を使うことをためらいました。
ハイドンが鉄を使ったピアノをいつ知ったか。
1791年にハイドンはイギリス旅行をしていますが、この時に鉄のピアノを知ったかどうかはわかっていません。
ただ、2回目のイギリス旅行(1794~1795年)の頃には、鉄製のピアノを知っていたはずです。
この頃に作られたHob.50、51、52のピアノ・ソナタでは、すごく大きな音を要求する部分があります。
1791年、ハイドンの1回目のイギリス旅行は、コンサートをするためのものでした。
それまで音楽は、教会で行われるか貴族の邸宅で行われるものでした。
教会での音楽は宗教行事ですから、もちろん音楽を聞く人からお金を取ることはありません。
貴族の家に呼ばれて演奏しに行く場合は、貴族がお金を払って音楽家を呼び、お客様を招待するというものでした。
「コンサート」という制度は、音楽をお金と引き換えるという資本主義そのものです。
事前にチケットを買って音楽を聴きに行くという「コンサート」もイギリスのロンドンで始まりました。
最初のコンサートとして記録されているのが、ハイドンのイギリス旅行で、そこで書かれ12曲の交響曲を『ロンドン・セット』と言います。
曲が売れると作曲家に利潤が入ります。
人気の作品は再演されるようになります。
こうして、作曲家がビジネスできるようになると、たくさんの作曲家がイギリスへ行きたがるようになります。
モーツァルトもイギリスへ行くために英語の勉強を始めたことを父への手紙に書いています。
ハイドンがイギリスへ旅立つ日に、モーツァルトはハイドンと食事をしているようです。
しかしながら、その年(1791年)の2月にモーツァルトは亡くなってしまいます。
ハイドンがこの時代の利を享受することができたのは、やはり長生きだったからでしょう。
そして最後の話は、モーツァルトが1775年(19歳)に作曲したK.280(第2番)のソナタと、1789年(33歳)に作曲したK.570(第17番)の2曲について。
ザルツブルクの宮廷音楽家だったモーツァルトの父レオポルトは、息子アマデウスの才能を見出して5歳の頃から宮廷を巡らせます。
自分の仕事を放り出してでも息子を売り出したいと必死でした。
子どもの頃には人気だったモーツァルトですが、10代後半になると天才少年のブランドも危うくなり、次第にどこの宮廷からも声がかからなくなります。
岡田さん曰く、人間というのは、生まれた時に天才と言われた才能を努力によって抜かすことができ、子どもの頃に天才と言われても20歳を過ぎると「ただの人」になっている人も多いのだとか。
それでも、モーツァルトが「ただの人」で終わらなかったのは、モーツァルト自身が努力をしていたからでしょう。
19歳で作曲した第2番のピアノ・ソナタは、ザルツブルクでくすぶっていた19歳の時に作曲されました。
モーツァルトらしさもありながら、作曲家としての腕のアピールもしているような曲です。
この後、1785年頃から、モーツァルトの作品が減っているのは、作曲の依頼がなかったということです。
ただ、作曲依頼がないことで、モーツァルトが自らの音楽を推敲する時期になりました。
1788年の三大交響曲(変ホ長調 K.543、ト短調 K.550、ハ長調 通称「ジュピター」K.551)、1789年のK.570、K.576のピアノ・ソナタなどでは、モーツァルトの作品のレベルが凄く上がっています。
K.570のピアノ・ソナタでは、少しの悲しさや諦めの心境も聞こえてくるとのこと。
レクチャーはここまでで、この後にピアノの演奏と質問コーナーでしたが、私は用事があり残念ながらホールを出ました。
ピアニストは、イリーナ・メジューエワさん。
昨年、ベートーヴェンのソナタをお聴きしているので、ハイドンとモーツァルトも聴きたかったです。
そして、以前にメジューエワさんはアートヴィンテージスタインウェイと言われる古いスタインウェイを用いたコンサートもされていたように思います。
そのようなピアノを使ってコンサートをされる方が、現代のピアノでどのように弾かれるのか興味がありましたが、とても残念。
ルシオール音楽塾の岡田暁生さんのレクチャーは4回目。
毎回面白く聴いています。
今回のお話では新しい発見はあまりありませんでしたが、ピアノ・ソナタを弾くために時代背景や作曲家の人生を知ることの必要性を改めて感じました。
ピアノ・ソナタといえば、ベートーヴェンがメインになりがちですが、久しぶりにハイドンやモーツァルトも弾かなければと思い楽譜を出してきています…