風景画を見に行きました。
福井県立美術館『ランス美術館コレクション 風景画のはじまり コローから印象派へ』
久しぶりの風景画の展覧会。
ほとんどが木々や水辺を描いた作品です。
空はどんより、木々に新緑のようなみずみずしさはありません。
さて、私は、視力があまり良くありません。
基本的に裸眼で生活していますが、美術館では、良く見えるようにと眼鏡をかけます。
ですが、眼鏡をしていると作品との間に1つ壁があるようでもったいないなんて思うのと、実際、裸眼の自分にはどういう風に見えるのだろうという興味から、眼鏡を外して見ることもあります。
今回も眼鏡をかけて見ていたのですが、眼鏡をかけると、細かな筆致や、絵の具の割れまで見えてきます。
複数の色の塗り重ねで描かれている1枚の葉っぱ、遠くの建物の窓の奥の明るさ…
そして、眼鏡を外してみます。
作品との距離は数10センチメートル。
文字を読むわけではありませんし、作品を見るには支障ありません。
ですが、眼鏡をしている時とは違う作品かと思うくらい、見え方が変わります。
色の境界はなくなり、なめらかなグラデーションになります。
1枚ずつだった葉っぱは纏まって大きな木になり、遠くの建物の窓はただの背景になりました。
濃くはっきりと主張されていた部分もあったのに、全てが柔らかくなり、こうなると、作品全体の印象はだいぶ変わります。
こんなにも作品が違って見えてしまうのは困ったものだと、眼鏡を外して顔を作品に近づけていきます。
するとさらに困ったことに、眼鏡をかけた時とも、眼鏡を外して普通に見た時とも違う見え方をする作品がそこにあったのです!
眼鏡を通して見ていたものは、一体何?
左右のレンズが作り上げた、本当は存在しない線なのでしょうか。
画家が描いた本当の線はどこにある?
画家本人が見ていたのは、どういう色でどういう線?
目の前にある物は間違いなく本物の作品なのに、自分の中で本物を探さなくてはいけない事態になってしまいました。
美術館へ行くのが好きなのは、「本物」に触れられるから。
作品は、作者以外の誰かの手で変えられるものではありませんし、いつからか作品の一部が変化するなんてこともありません。
それに比べると、音楽作品の「本物」というものは、よくわからないものです。
作曲者と演奏者は別ですし、しかも演奏する度に違うものになります。
ですから、本物が一体どこにあるかわかりません。
どんなに素晴らしい演奏が出来たとしても、それが本物とは限らない…
正解が複数存在することがあり得るかもしれません。
美術作品は、絶対に本物は一つだけです。
ただ、今回の展覧会で思ったことは、作品自体が変わってしまうことはありませんが、そこから本物を見出すのは自分であるということ。
たとえ同じ物を見ていたとしても、自分が見ている物が、他人が見ている物と全く同じだとは限らないのです。
音楽ならば、自分に聞こえているものが、他人にも同じように聞こえているかどうか、わかりません。
どれだけ自分の音や音楽を客観的に聞いても、きちんとこちらの思いが伝わっているかも、わかりません。
眼鏡をかけて、裸眼で普通に立って、裸眼で近づいて…
私は、眼鏡を外して、裸眼で普通に立って見る作品が、一番好きでした。
いつも自分が見ている世界に一番近いですしね。
結局、物事の判断の基準が最終的に自分にあるのならば、もっともっと自分を磨かないと!と思った展覧会でした。