クラシックのピアノを勉強し始めたら、必ず出来るようにならなければならないことは、楽譜を読むこと。
西洋音楽の楽譜の書き方は世界で統一されていますので、楽譜を読むということ自体は、それほど大変なことではありません。
もちろん、時代によって楽譜の様子は違います。
五線で表すようになる前は、高さを明確にする線がなかったり、四線だったり、音価(音の長さ)を表すために今と違う記号を用いたり…
ですが、それは随分と昔の話で、現在私たちがピアノで演奏する曲は、五線の上に書かれた曲です。
バッハもモーツァルトも五線紙に曲を書きました。
しかも、私たちが作曲家の自筆譜を見るのは勉強する時か博物館に展示されている時くらいで、実際演奏に使うのは美しく整った印刷された楽譜です。
印刷された楽譜は尚更、一時の流行によって大きく書き方が変わるものではありません。
楽譜上で使われる記号は同じようなもので、知らない記号には滅多に出会わないものです。
ですから、どれだけ難しい曲でも、音が多い曲でも、読むだけなら困ることはあまりないのです。
読んだ後、その楽譜からどう音楽にするかは勉強も技術も必要ですが、それはまた別の問題…
さて、J.S. バッハの『平均律クラヴィーア曲集 第Ⅰ巻』の「第4番 cis-moll」を練習していた時のこと。
私は、バッハは基本的にヘンレ版を使用しています。
譜読みをしていると、プレリュードの14小節目の和音のところで、加線にもう1本の線が見えるような気がします。
睫毛が付いているのかな?と、手ではらいますが取れません。
加線が2本?
おかしいなー、今日は乱視がひどいのかなーと、近づいて見てみると…
何と、そこにはしっかりと斜めにもう1本の線が書いてあるのです。
印刷の際のミスか汚れかと思いましたが、後半の29小節目に出てくる和音のところにも、やはり同じように斜めの線。
14小節目の注釈に弾き方が書いていました。
楽譜の音符はシレ♯ソ♯。
斜めの線が入って、弾き方はシド♯レ♯ソ♯。
ドイツ的ではない独特な響きがする装飾です。
ヘンレ版の注釈のおかげで、弾き方はわかりましたが、一体これは何の記号なのでしょう…
付け足されたド♯は、レ♯の前打音?
アッチャカトゥーラ(短前打音)は細かい音符の符尾に斜線を書いて示します。
バッハはアッチャカトゥーラの音符を省略して斜線だけを書いて示したのか?と思いましたが、現代のアッチャカトゥーラの書き方をバッハは使っていませんので、それは違うのでしょう。
どういうことか調べなければなりません!
バッハの曲ではたくさんの装飾記号が使われています。
ヘンレ版や全音楽譜出版社版には、装飾記号の解説が書かれていますが、その表の中に斜線の表記はありません。
調べてみると、この斜線記号は、Tierce coulée (ティエルス・クレ)という、アルベジオを含むアッチャカトゥーラでした。
この場合、アッチャカトゥーラの補充音はシとレ♯の間のド♯となります。
このティエルス・クレがバッハの音楽で出てくるのは非常にまれなようです。
この第4番のプレリュードは、バッハが最晩年に作成した多くの装飾が書き込まれた楽譜が今日一般的に演奏されているようですが、さらに古く、装飾が書かれていない楽譜も存在するようです。
斜線のアッチャカトゥーラ(恐らく29小節目)は、古い方の楽譜にも書かれているようです。
平均律の楽譜はあと4冊持っています。
装飾記号など違うところはたくさんありますが、14小節目と29小節目を取り出して見比べてみました。
ペータース版は、14小節目には斜線はなく、29小節目には斜線がありました。
ブライトコプフ版は、装飾音の付け方がとても細かく書かれています。
14小節目には斜線がありません。
29小節目は、斜線の指示はないものの、前打音を含んだ演奏方法で演奏するよう書かれています。
春秋社版は普段はあまり見ませんが、どうなっているのだろうと見てみると、どちらも斜線の記号はありませんでした。
面白いのは、春秋社から出ている園田高弘さん校訂の楽譜。
これは最近手に入れた楽譜で、CD付きです。
さすがピアニストさんの校訂版。
速度、強弱、フレーズ、運指、ペダリングまで書かれています。
そして、複縦線や声部の繋ぎの線なども書かれていて、曲の構成についてもわかりやすいく書かれています。
問題の箇所ですが、ペータース版と同じく、14小節目には斜線はなく、29小節目には斜線がありました。
なんと、14小節目を上からのアルペジオで弾くように書かれています!
フレーズの流れを優先したのでしょうか。
CDを聴くと、29小節目は下からのアルペジオで演奏されていました。
バッハに直接尋ねることができないので、複数の楽譜や文献から調べて考えることしかできません。
4番のプレリュードの装飾は、楽譜によっても弾く人によっても違います。
そもそも、バッハの時代は装飾はもっと自由に弾かれていたはずです。
さて、この『平均律クラヴィーア曲集 第Ⅰ巻』第4番 嬰ハ短調 BWV849。
楽譜の見た目は白くて何だか簡単そうにも見えてしまうのですが、弾いてみると、これが弾けない!
恐らく『平均律クラヴィーア曲集 第Ⅰ巻』の中で、一番といって良いくらい難しい曲ではないでしょうか。
感覚で弾けない曲です。
きちんとしなければ絶対に仕上がらないので、久しぶりに細かく分析しました。
流れるようでとても美しいプレリュード。
ややこしそうに聞こえますが、和声分析をすると、意外と単純な和声進行で作られています。
ラ♯のバスから始まる最後のコーダ5小節に違和感があったのですが、加筆されたものだそうです。
35小節で終了するには短すぎると、バッハ自身が思ったのでしょう。
このコーダがあるのとないのでは大変な違いです。
コーダは、ずっとドッペルドミナント。
解決しそうで解決しないままドッペルドミナントが3小節続き、4拍目でドミナントのⅤの和音へ移動。
やっと解決するかと思ったら、Ⅰの和音は来ず、偽終止(Ⅵの和音)でまたも裏切られ…
その後は綺麗なカデンツで終止します。
5声のフーガは、主題に2つの対主題がある三重フーガ。
主題と対主題、その展開を探し、何調かを判断していくと、大きく3つの部分とさらに細かく6つの部分に分けることができました。
主題がいくつも重なり、音域が広がり、どんどん重厚になっていく壮大なフーガです。
いかにも声楽的なフーガで、5人が歌っているように演奏したい…
最初の主題は男声が歌い始めるように聞こえますし、36小節目からのソプラノはコロラトゥーラ(高音域で華やかな装飾で歌う超絶技巧)のようです。
教会で厳かに歌っている様子が目に浮かぶ曲です。
実際に歌うには、音域に無理があるかもしれませんが…
ピアノを引き続けて何十年。
まだまだ知らないことがたくさんあるのです。
久しぶりに新しい記号に出会い、勉強になりました。