数か月前、東京都美術館のフェルメール展のチラシを受け取りました。
めくるとキューピットが見えるようになっている、しかけ絵本のようなチラシです。
何だか凄く楽しそうで、絶対に行こうと思っていた展覧会。
フェルメールの「手紙を読む女」、大阪で観てきました。
色褪せたニスを剥がして鮮明な色を取り戻し、誰かによって上塗りされた部分の絵の具を剥がして、フェルメールが完成させた状態へ戻したそうです。
とても薄い絵の具の一層を剥がすなんて、物凄い技術です。
これは「修復」?
壊れた部分を直すことを修復と言うなら、上塗りした人は作品を壊してしまっていたということになるのでしょうか。
本来のフェルメールの絵に戻す?
もしフェルメールが無名の画家で、上塗りしたのが超有名な画家だったら剥がしたりしないんじゃないかな…
こんなことをし始めると、実はキューピットが描かれていて、それが上塗りされていて、それを剥がした人たちがいるから、また塗ってやる!みたいなことに延々ならないのかな?と、素人が要らぬ心配をしてしまいます。
いろんなことを考えてしまったのは、構図的にキューピットがない方が、私の好みだからだと思います。
それにキューピットの感じも好きでない
何かネチネチしてるというか…
我が強いというか…
主人公差し置いて出しゃばってくる感じが苦手です。
結論は出ないですが、何でも元の状態が絶対に良いわけではないのかもしれないし、上塗りされた歴史も含めて今の作品なわけで、今ある現状を受け入れるとか起きてしまったことを取り戻さないという選択肢が美術作品にはあります。
技術の進歩と研究で作品に傷を付けずにいろいろ調べられるのですから。
そう思うのは、私が美術に不勉強だからでしょうか。
音楽においては、こっちの音の方が良くない?なんていう議論はあまりされませんし、ましてや、作曲家が書いた音を変えるなんてもっての外です。
正直、私は、ブラームスやシューマンを弾いていて、この音よりもこの音の方が和音のバランスが好きなんだけれど…と思うことがあります。
それでも、それがその作曲家の響きです。
最初はどんなに弾きにくくても、ひたすら弾いて聴いて、自分の身体と耳に馴染ませていきます。
テンポ、アーティキュレーション、強弱、音色など、演奏者に委ねられていることはたくさんありますが、音高は楽譜が絶対です。
出版の歴史の中で複数の音の候補がある時は演奏者の知識で決断しなければなりませんが、基本的に音の高さを演奏者が選べることはありません。
推敲に推敲を重ねて音を書いた作曲家。
紙を貼って音を改め、更に苦心して考えて、紙を貼って音を改め…
作曲家がどのように音を選んでいったのか、変えていったのか、貼った紙の下の音が気になります。
最初に書いた音がわかったとしても、それを採用することはないでしょうし、途中に書いた音の方が美しいからそれにするというわけにはいきません。
作曲家が「完成」だとした音を選択するのが普通です。
本来の楽譜を差し置いて、みんながこう弾いてきたから…という理由で、作曲家が書いた音と違う音で演奏されている曲があるかもしれません。
それでも、研究が進んで本来の音が確定したなら、明らかな間違いでない限り、恐らく作曲家が書いた音で演奏する流れになっていくのでしょう。
フェルメールがキューピットを描いていて、それで完成としていたなら、それがこの作品としての正解だと思います。
キューピットがあることで手紙の内容や女性の心情まで読み取れるのには納得です。
フェルメールが作品を通して伝えたっかたことが、きちんと受け取れるような気がします。
どちらも捨て難いので、キューピットがいるバージョンといないバージョン、両方のポストカードを買ってきました。
そのうち、私の好みも変わるかもしれません。
どこに飾ろうかな…